生麦事件とは・・・1853年(嘉永6年)黒船来航により日本は鎖国から開国へと大きな転換期を迎えていました。大老の井伊直弼が勅許を得ぬまま日米修好通称条約に調印すると尊王攘夷運動が高まり、安政の大獄、そして、桜田門外の変へと時代は大きく動き始めます。
幕府改革の勅命を幕府に伝える勅使大原重徳の護衛の任を終え、江戸から京都に帰る薩摩藩主の父、島津久光の一行四百余名の隊列が生麦村にさしかかったとき、神奈川方面から馬を走らせてきた外国人四人と遭遇しました。上海在住のイギリス商人リチャードソン、その友人で香港商人の妻ボラデール夫人、夫人の義弟で横浜在留商人マーシャル、横浜のハーバード商会のクラークは、川崎大師見物へ行くべく、のどかに語り合いながら馬を走らせていたのです。四人の外国人に対して、行列を警護する武士たちは行列に近づかないように、下馬をするようにと身振り手振りで要求。しかし、イギリス人たちは日本の国の習慣を知らなかった。言葉も分からずただ右往左往しているうちに行列に巻き込まれてしまった。リチャードソンは列から抜け出そうと馬の手綱を引いたところ、馬首を久光の乗っている籠に向けてしまい、籠を警護していた奈良原喜左衛門に斬りつけられた。警護の武士たちも深手を負ったリチャードソンに斬りかかった。驚いた馬は心臓を突き刺されたリチャードソンを乗せて、きびすを返して神奈川方面に走った。リチャードソンは600メートルほど離れた松原で落馬し、落命した。これが世に言う生麦事件。

こう聞くと、武者震いするような、武士の魂をくすぐるようなところがある。考えてみれば、馬で通っただけのものを無礼討ちにしたこと。でも、これを非人道的だと思わないところが日本人にはある。これを聞いて我々がどう考えるか、というのが非常に面白い。
しかし、人殺しまでせんでいい。殺す理由にはならない。殺す理由を探すより、武士の誇りみたいなものを感じてしまうこれは日本人の幼さかも。怖さを感じる。戦争だから許される、という考え。それが日清日露。大東亜戦争につながっていく。今の日本人の心に人命尊重の芽を生んでいない僕ら。

前回放送の講談でもあったように、先生は文化こそが人の心を動かすことができるとおっしゃってました。「正しいことをしなさい」「愛しなさい」とか言っても子供は聞かない。動かない。物語を作らなければならない。行動していかないと「愛する」ということを理解して行動することができない。僕らが「愛する」ということを学ぶときは「聖書」は愛するということで一貫している。ああいう物語をすることによってでないと「愛する」ということを体験できないと先人は知っていた。物語がなければ愛するということを体験できない。いい小説、映画など、人間のあるべき姿を描こうとしている形が、初めてあるべき姿の行為価値基準になると思いますね。

結局、「わからん」ということがわかることが大事です。ちょっと五代友厚の本を三冊四冊読んだからって「五代友厚はこういうものです」と断言するような人はわかった、とは言えないのかもしれない。
生麦事件をどうとらえるか、という話。
公武合体の話が出てきたが公武合体は幕府の政策。
なぜ薩摩が公武合体を進めに江戸に行ったのか。
そのあと薩長は公武合体をつぶしにいくのに。
その帰りに生麦事件に遭った、というのは。
久光の行動動機を理解する。これを理解することが、文化なのかも。

その辺の歴史をひもとけば歴史が面白くなる。
久光の行動動機がわかる、久光の行動動機を久光になって考える。
それが理解をすることにつながる。
映画は主人公になってみる。
他者を自己に取り入れる一番有力な方法。
だから映画作りをする。

今回は「歴史」とは何を知ることか?という勉強になりました。
私はこれまで「歴史」は先人の失敗を知るためにあると考えてきました。
しかし、歴史は全て「今」に繋がっているわけで、
とすると、今に繋がることの全てを知ることができるかもしれません。
あの出来事もこの出来事も、全て「今」に繋がっている。
何一つ欠けても、今には繋がっていなかったわけですよね。
とすると、今の私たちもすでに歴史を作っているわけです。全て結果論だなと。
未来は「わからない」。
その「わからない」ということがわかるために「歴史」はあるような気がします。

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