渋沢栄一・尾高淳忠のもとで学ぶ。「本当に読みたい本を読め」という教育。

しかし、廣田の考えとしては子供の認識に合わせて読みたい本を読むのは違う。
先人が選んだ決められた100冊を子供は読むべき。
コロナウイルスがなぜ若者の中で流行っているのかにつながる。
自己発見、自己決定の原則にのっとって教育はやってきた。
そういうことは子供にはできないのに。
読みたい本を読ませていたら教育としてはダメ。
読まなきゃいけない本をちゃんと読ませる、読むようにするのが教育。
読む習慣をつけるには読みたい本でいい。
でも読ませるべき本がある。読むべき本を読ませる必要がある。
子供に選ばせてはダメ。いい本を読ませる必要がある。
子供が選んだ本、例えばマンガなどを読んで楽をしていたらを努力をしない。
成長をしない。子供の成長は子供を価値基準にはできないはず。
良書こそ読ませるべき。四書五経の暗記から始めることを廣田は勧める。
先人が推薦した100冊の本。良書を中学時代までに読ませるべき。

本を選ぶ側の、大人が好きな子供を作ることになるのではないか。

自己決定のほうが個人の人権を尊重をしていると思われるかもしれない。
けれどそれは間違い。
教育とは子供のためにあるわけではなく、国家維持のためにある。
世の中はこれを通説とすべき。国が作りたい人材を作るべき。
将来、未来をどう見据えるか、というのを教えるのが学問。
国家のために強制(矯正?共生?)できる国家を作るために学ばせるべき。
自己責任自己選択でなんでもいいや、で放置をするのは違う。
命がけで選んで本を推薦する必要がある。

廣田も55歳までは試験に受かることが勉強だと思っていた。
試験に受かることは勉強ではない。生きる力を与えてくれるのが本当の読書。

この本読んだほうがいい、というのがあれば、是非、教えてください。

今回、面白い!と感じた部分がここでした。

自己決定のほうが個人の人権を尊重をしていると思われるかもしれない。
けれどそれは間違い。
教育とは子供のためにあるわけではなく、国家維持のためにある。
世の中はこれを通説とすべき。国が作りたい人材を作るべき。

これは、国家だけでなく、企業や家庭にも当てはまることだと感じました。
今、コロナ禍で「国民の自由」を守るため、権力側は強制できないのですが、
強制されなくても、自己管理の下で国がどうしたいのかを理解できるはずと感じました。
今、「多様な価値観を認めよう」という流れになっていますが、
多様な価値観とはそもそもがあって当たり前のことであって、
いちいち言う必要のないことではないか。
みんな違ってみんな良い。
よく聞く言葉ですが、それをわざわざ意識づけなければならない、
何となくですが、自由に縛られている気がしてならないのです。
「皆の自由を守っているんです」「皆は自由なんです」と動機付けられ、
あたかも自由であることを強制されているかのように感じてしまうのです。

本当に自由のなかった先人達は、今の日本人をどのように見ているのでしょう?

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