新型コロナウイルスはなぜ出現したのか?というお話でした。
生物学を超えた理論で、哲学的だなぁと感じることのできる回でした。

廣田先生がおっしゃるには、

人間は知識は得ているけれど、それをアウフヘーベン(*1)できていない。今までの経験が知恵になっていない。「サピエンス全史」を記したハラル氏は動物を家畜化して肉として扱うようになった、と言っている。ここからコロナが始まったのでは、と考える。資本主義の社会なので、実際に食べるぶん以上の肉を生産しなければならない。動物を物として扱うことになった。本来ではない生き方である。武漢のコロナは豚小屋から生まれた、という説もある。作りすぎることが問題を産んでいる。行き過ぎた資本主義への罰がコロナなのではないか。

実は、スタッフも全く同じことを考えていたのです。飽食の時代と言われたのが、ちょうど団塊ジュニアである私が子供の頃からでしょうか。冷凍技術が進み、冷凍食品が多く出回るようになりました。保存が効くということは、大量に生産しても問題ないということです。余剰な食べ物を生んでしまっているのではないかとずっと思ってきました。貯蓄的な考え方でいえば、世の中にお金が回らないという部分と似ているのではないかと。あればあるだけ良い・・・わけではないはずです。

SDGsの考え方。毎日ご飯を茶碗一杯ぶん捨てているとか。廣田の考えでは、SDGsは資本主義を延命させるエクスキューズとして使われている。やればやるほど格差社会は無くならない。足りるだけのものを生産すること。資本主義的価値ではなくて、使用価値を考える。あまりものを無くす、ということではSDGs的な目標は達成できない。金持ちの言い訳に過ぎない。脱成長の問題まで考えて、人間の生き方の根本から問い直す必要がある。

スタッフの私が思うに、特に日本は人口減少社会ですから、様々な無駄を削ぎ落としていく時期に入っていることは間違い無いでしょう。捨てる分まで生産する必要はない。人間ですら、自然の中で生かされているのだと思うのです。人間そのものが淘汰の対象に含まれていなければ良いなと思います。それも神の計画の1つであれば、受容する他ないのでしょう。人間が万物の頂点ではないと考えます。

*1「アウフヘーベン」
止揚。ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄。廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した(ヘーゲル弁証法)。古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。

つまり、人間は知識を得てはいるけれど、その知識を知恵として生かすことができていないと廣田先生は指摘されています。知ってはいるけれど、能力になっていない。過去にインフルエンザやSARSなど、新型ウイルスとは共存してきたわけで、その経験値が全く生きていない。知っているだけではダメ。問題を解決していく知恵が必要です。社会でも使える重要な考え方です。

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