ソクラテスが対話を続けた場所「アテナイ」。
当時のアテナイでは、表向きは民主政治、実際は衆愚政治でした。
ソクラテスはそんな民主政治にも容赦はありません。
「今の民主制はおかしいと思います。なぜ、こんなことがまかり通るんでしょうか?
 そこに真理はあるんでしょうか」と質問を重ねる。

政治家たち、権力者たちにとって、ソクラテスの存在が、邪魔で邪魔で仕方がない。
裁判にかけられることになったソクラテスでしたが、いつもの様に、対話を続けました。

死刑となったソクラテス。
「もっとも大切にしなければならないのは、単に生きることではなく、善く生きることだ。
 法できまったこと。逃げ延びるのではなく、喜んで死ぬよ。」
ソクラテスはにこやかに毒杯を空にしたのでした。

この物語の裏には「民主政治の限界」があると考えて良いでしょう。

実は、悪法を作ってしまうのは、そこに悪意があるわけではないのです。
現代は価値観の多様性が言われています。
価値観が多様化した中で、どこを基準として考えていくかは、非常に難しいでしょう。

例えば、コロナ禍の中で、若者を救う支援策が無いという声をよく耳にします。
相対的に考えれば、飲食業界や旅行業界の影響に比べれば、
学生さんたちへの影響は小さいものとなってしまいます。

すると、学生を救おう!とはなりません。
まず、飲食業、旅行業を救おう!となってしまいます。
相対的に見るかしないからです。
一人一人に対応した政治なんてできるはずがありません。

だからこそ、廣田は「学問」であると説きます。
民主主義においては、民が決めるわけです。
民のレベルを学問によって上げる必要があるのです。

これ以上は、少し長くなってしまいますので、また別の回に言及したいと思いますが、
若者の政治離れは起こるべくして起こっているわけです。
しかし、政治が民衆に迎合していては、もっと意味がありません。
ですから、若者が立たねばなりません。学問をしてください。

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